昭和52年04月10日 朝の御理解



 御理解 第64節
 「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」

 参ってたずねる所がなかった。参って訪ねても見当違いの答えであったりね。間違った答えであったりしたのでは意味がありません。そういう意味でまぁ教祖の神様はじきじき、天地の親神様いわゆる天地金乃神様から、お知らせを頂かれて、それを参って来る氏子にねんごろに説かれた。それを頂いて帰る者がおかげを受けただけではなくて、その受けて帰るお話というものは、そのままお徳にも繋がるほどしのお話であった。だからそれを有難く頂いて帰れば、船にも車にも積めぬほどの神徳が受けられた。
 信心して徳を受けて身しのぎをする様になれと。見しのぎと言う事はそういう、お徳を受けて有難い勿体ないの生活に入っていけて、あの世にも持って行かれこの世にも残しておけると言う程しのものだと私は思うです。今日はこの見しのぎと言う事は、そういう風に思うですね。ですからそれを確かなものを頂いて、確かなおかげに確かな信心の力にしていかなければ、参って来て如何にお話を頂いても又はお尋ねをしても、折角ここへ参って来ても、ここへ参って来た値打ちというものが無い事になるのです。
 私はここへ参ってと言う事、ほんなら今日ここは合楽に参ってという風にね、合楽にお参りをして、ここではお尋ねをする事が出来る。昨日も三時の研修の時に、もう本当に私が、昨日は十六七名でしたでしょうか。ほかの青年会の方も一人二人かたっていましたから。もう本当に日々の御理解を、もう見事に把握するというか。頂きどころを頂いて、ちゃんと纏めておるのに驚きます。
 昨日秋山誠治君が発表しておりましたが、どうもその纏め方が散漫である。それがその、マルショウの御用をしております時には、マルショウに打ち込んでおりますから、それでその信心のほうが、いわゆる片手間になってしまう。昨日は本部から今度頂いて来た、得心というご本に大変素晴らしい事が書いてありました。もうそれを研修の時も話したことでしたけど、本当に例えば過去のどんなに偉い先生、どんなに徳を受けられた先生方の信心であっても、それはもう過去のもんだと。
 金光教はもう新たな世界に、新たな言うならばお徳の世界。新たな信心のあり方と言うものが、生み出されていかなければいけないと言う事をです。あの説明しておられる先生がありましたがね。この方にもし合楽理念を話してあげたら、もう飛びついて、はぁこれだと、これからの金光教の信心はこれだと言うて、その飛び付いて来られるような、新しいというか、言うならばある意味で金光教をこの新しくするというか。言うならまぁちょっとした言うなら革命とも思われる。
 教祖金光大神の教えを基にして、こういう風に金光教は開けてきたんだ。こういう風に、もう進んできたんだと言う所をね。今皆さんが勉強しておられる、合楽理念と言うのはそうなんです。今までかって言われた事のなかった事ですけれども、ほんなら金光教じゃないかというとそうじゃない。教祖の御教えを基にしての、いわゆる助かりの理念という事がはっきりここに打ち出されておる。
 合楽理念は助かりの理念だ。例えばそういう理念がです。日々の御理解の中にまぁ説かれてありましても、それを頂くというか纏めて見て、自分のものにしなければいけないです。昨日幹三郎が、発表しておりました中に、あれもおかげであったと分かれば大安心という、こう箇条書きに、ずっと書いてましたがね。いろんな事があります。自分ではぁこりゃ広大なおかげと思う事もある。
 自分ではぁ信心しよって、どうしてこんなと言う事もあるけれども。そのどうしてと言う事がです、これがおかげと分かった時に大安心だと。どうしてという問題が私の前には、無い事になるですから。困ったと思うておった事がおかげと分かった時に、安心のおかげが受けられるんだと言う様にです。もう本当に御理解を頂いて、もういうならばあのぎりぎりの答えを出していけれる。そしてそれが自分の血に肉になっていく。ところが昨日、秋山君の発表を聞いていたら、見事にその纏めているんです。
 それで私は思ったんですけれども、これは如何にそのマルショウが、そのまま信心の御用だと言うても、マルショウに打ち込んでおる時には、いうならば信心のほうはやっぱり、お留守になっておると言う事。大きく言うてそうした御用を、一生懸命打ち込んでおると言う事は、これは大きな銘々の財産になる事なんですよ。マルショウ時代に、マルショウに一生懸命打ち込んだ。またリーダーとしておかげを頂いて、マルショウの発展にまぁ一生懸命の御用を頂いた。
 それはね是から本当の信心を打ち立てていく、一つの基礎土台にはなるです。けどもその日その日の信心を頂く。ほんなら今秋山君の場合なんかは、もうここでその事に専念している。もう来月から学院に行かなきゃならん。あぁ今月ですかね。もう学院に行かなきゃならん。だからもう信心教えに取り組む事だけに専念してれば良いんだと。マルショウの御用が無くなって、ここ一両日言うなら信心に専念しておる。専念しておる時の、その答えというかその纏めというか。もう見事に矢張り出来ておる。
 信心即生活、生活又は即信心とね。それは甘木の親先生のお言葉を借りると、生活即信心なんてない。もう信心即生活でなからにゃならん。もう一切が信心でなからにゃならないという訳なんです。ところがね。昨日のこの得心という本には、そういうねそう言う事は実際問題として出来ないんだと。もう殆んどの人が矢張り、片手間に信心をしているんだと。今の世の中の激しい言うならば、世の中でです御教えがどうのこうのと言うて、生活は出来んと。もう食うか食われるか。
 生活がお互い掛ってるんだ。ぐずぐずしよったらもう食われてしまうんだと。そういう時代にですね。だからた、朝お参りをして、どうぞ今日も宜しゅうお願いしますと言うのであって、もう生活に分離するんだと。だからその一緒にそのと言う事は出来ないと言った様なその論法で、実はそれが段々おかげに信心即、生活と言う事にならなきゃならんのですけれども、皆が大体そうだと。信心頂いておると言うても、お参りをした時だけであって、もう生活の中ではもうそれこそ。
 信心のない者と信心のある者との相違と言った様なものが、そうありはしないんだと、言った様な事を言っておりますがね。私はその昨日誠治君の発表を聞いて、それを本当に、そうだなぁと思いましたよ。マルショウに打ち込んでおる時にはですね。もうほんなら纏めそれすらが、ぴんと来てないです。ところが御理解を頂く事に専念しておる。それをほんなら、合楽理念に取り組んで修行が出来ておる。
 そして御理解を頂くと言うと、さぁっともう明晰にですね、もう的確に今日の御理解の頂きどころを言うものをずうっとこう頂いてある。だから矢張り本当に専念すると言う事は、素晴らしい事だ。特にほんなら今修行中の修行生の方達の場合なんかは、もうそれだけに専念するんだからねと、まぁ言って話した事でした。だからほんなら皆さんの場合なんかはです。ほんなら御理解を頂いておっても、中々御理解をそのまま、生活の上に現す事が出来ないような場合もあろうけれども。
 矢張りこうやって皆さん、打ち込んでおられるんですから。それが何かのところで生きて来なければならないと言う事です。昨日の私はここへ参ってたすねるところ、ここで参ってお話を頂く尋ねるところ。本当に合楽のほんなら御理解、皆さんがここでお伺いをなさって、尋ねられる事が、もう本当にそのまま本当だと言う事を、まぁ実証する話が、昨日一つ二つあります。
 昨日ちょうど上野先生が奉仕をしておる時に、森のほうから電話が架かってきた。まぁ色んな問題である。それを聞いておると、もう昨日頂いた御理解の中のお話と、そっくりそのままの問題が出てきた訳です。だからもう安心してお取次ぎ、今朝の御理解はこうでしたよ。そこん所をもう一つ例えば、信心にならせて頂いてと、昨日の御理解をそのまま仕えさせて頂いたと言う事が、今日のその御用日誌に書いてある。と言うほどしにほんなら、合楽の御理解というものは適切なんですね。神ながらなんです。
 午後のお参りの時に、正義先生が言っておりました。もう昨日は昨日の事なんです。今朝の御理解をそのままの問題が起こりました。ですからもうそれをそのままに、その人をですね、あるそのまぁ友人関係の方です。もう沢山なそれの為に、損をしなければなるかならんかと言う所です。だからあんたがここで短気を起こしたら、もうそれこそ水の泡になってしまうのです。今朝の私は金光様にお参りして、今朝お話頂いたがそれと同じような御理解を今日頂いて来た。
 ここばいっちょあんたが馬鹿と阿呆になって、いっちょ頭を下げて行ったら、それこそあの向こうもそげん、ずうっと腹かいとるとばっかりじゃ無いとじゃけん。まぁ本当にこちらが実意をもって、御詫びをして行くならばです。必ずおかげ頂くよと言うてやりましたら。ははぁそらもう良かこつを教えて貰うたち言うてから、もう喜び勇んでお詫びに行かっしゃったと言うお話をしていました。もう今日は良か話を聞いたと。もし行かなかったらもう二つに割れて、沢山な金の損害にならなきゃならない事だった。
 向こうも欲を言うござるばってん、欲を言わにゃならん理由も、やっぱり向こうにもある訳なんです。そこでほんなら信心のある者が、またそこでヒントを与えて頂いてです。こらいっちょあんたがどうでんこうでん、もうどげんあいつが言うたっちゃ、もうまぁいっちょ頭ばしっかり下げち来んのと。そしたらその人がねもうそりゃ、今日は良かこつば聞いたと言うてまぁ喜び勇んでその、お詫びに行かっしゃったと言う話を、昨日しとりましたがです。
 と言う様に合楽のお話というものは、生活の中に皆さんの生活の中に、溶け込んでいく。そして的確だと。と言う事なんです。だから片手間信心と言うと、如何にも悪いごとあるけれども片手間ながらもです。やっぱその半分ぐらいは生活の中に、そういう教えというものが生き生きとして、入っていかないとです。信心して身に徳を受けと言う事にならんのです。これも昨日、研修の時に今、今日で三四日ここで修行しておる、若い青年の方があります。
 それで皆さんが、みんな発表しましたけれども、そんなに矢張り頂きつけないと、御理解が中々そう分からないのが当然の事です。そこで私があんたの場合は、発表じゃなくて分からん所があるならば、それを質問をされたらどうかと。と言うたらもう早速分からない所がある訳です。今日の皆さんの発表を聞いておると、またお話を頂いておると、信心辛抱信心辛抱と言う事が、沢山出てくるんですけれども。大体信心辛抱とはどう言う事ですかと。はぁそら良か質問したねという訳なんです。
 私はそれに答えながら、思わせて頂いたんですけれども、信心辛抱と言うのは信心のある人でも、無い人でも同じですけれども、大変矢張り辛抱強い人がありますよね。信心がなかっても。けれどもそれは我慢我力だと私が申しました。そういうほんなら我慢我力が強い人が、ひとたび信心になってそれが信心で、それがなされる時に本当の信心辛抱と言う事になるけれども。辛抱強い人はいうならば、生まれつき素直な人はもう自分は、素直だと思うておる。
 けどもそれは本当な素直じゃないのだと。場合によっては人が馬鹿と言うかも知れん。あれはほんな、まんまんしゃんのごたる奴だというごたるふうになって来る訳です。けどもそれが信心で素直になると言う事になる時にです。初めて雲の上までも登る道が開けて来るんです。信心辛抱だってそうなんです。ただ自分は辛抱力が強いと言うのは、辛抱力じゃなくて我慢力だと。我慢我力だとそれは結果において、いわゆる我慢我力が強うなるばっかりで本当の辛抱じゃないんだと。
 だから言うならばです、ほんなら不精もんの人仕事嫌いな人、そういう人がです。矢張りほんなら信心になってです。辛抱力を作っていく。教えを頂けば頂くほどこんな自分の不精な心では、本当なおかげは受けられんと分からせて貰うて、辛抱力を作っていく。毎日、朝の御祈念の後に一時間ずつですかね。今修行生の方達が全部、ここで信行をしております。座る修行をしております。その中にその方も入ってる訳なんです。こっから見とってもうやめとかんねと言う。
 もう足をこうこしよる。もう座り付けんならそげんありますよ、やっぱ一時間でも。だからもう胡坐かいてよかがのと言うたら、もうそれまでじゃから私も辛抱しとる。それが信心辛抱なんだ、ならあんたがねいわゆる、心を神様に向けさせて頂くために、一生懸命、正座して座っておる。それが信心辛抱なんだ。信心辛抱と言うのは、久留米の初代の信心と言われるのだけれども、久留米の初代の石橋先生が、信心辛抱と言う事は、もう段々、辛抱せんですむほどしの辛抱が出来ておられる。
 どんなに腹の立つような問題があって、ぐうっといわば金光様、金光様で堪えなければならないような問題でも、段々その修行をなさっておられるうちにです、ね。ぐうっと堪えて辛抱するのじゃなくて、もう本当にその辛抱ができる事が有難いと思うて、辛抱しよりなさるとじゃから、もう辛抱じゃないんだと。それが信心辛抱の徳なんだと。信心辛抱の徳を受ける。そこには堪えなければならんと言った様な事がない。一切がもう有難いと言う事になって来るんだと。
 まぁ信心辛抱とはそういう訳だけれども、分かっただろうか分からんなら、また尋ねて下さいと言うて、まぁ説明をした事でしたけれども、やっぱり尋ねなければ分からない事があるでしょうが。ただ辛抱力信心辛抱と、我慢力とを一緒に考えておったんじゃ駄目なんですよ。だからいうならば素直でない人が、信心によって本当に素直になる。辛抱力のない無精者の人がです。
 信心によって教えを頂いて、辛抱力が出来てきて有難い事になってくる。信心辛抱というのはその様に違うんだと言う様に、尋ねられて初めて信心辛抱の意味が、まぁみんなも分かったと言った様な感じです。あまり信心辛抱信心辛抱ばっかり言いよるから、もう分かりきったごと思うとるけども。実際は分かってない訳なのだ。矢張りだから尋ねなければならぬ。ここには尋ねに来る所、ここには確かな答えを聞かせて貰う所。人間が幸せになって行く為の、一つの条件と言った様なものがです。
 合楽理念によって説かれる。それを頂いて自分のものにして行くと言う事。そのためには行いよる、ところが分からん所が起こって来る。また来て尋ねる事が出来る。そういう尋ねる事が出来ると、しかもここでは的確に伝えられておると言う事が、私は合楽は有難いと思うのです。そういう信心がなされて行く所から、段々徳を受けて、身しのぎが出来るようなおかげが受けられるのです。
 今日は私はここへ参ってと、教祖様が仰っておられる事をです、合楽に参ってという風にと、今日は聞いて頂いたんです。合楽に参って御理解を拝聴する。分からん所は尋ねる。そして確かなもの本当なものにして、それを自分のものにして行く所から、見しのぎの出来るほどしのおかげが頂ける様になると言う事を、今日は聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。